剱岳 リンク集
剱岳(つるぎだけ)は飛騨山脈(北アルプス)の立山連峰にある山である。富山県の上市町と立山町にまたがる。深田久弥の日本百名山の1つ。旧表記は「劒嶽」。長らく精密な測量による高さが求められていたが2004年に国土地理院により測量され、標高2999mが発表された。
日本国内で「一般登山者が登る山のうちでは危険度の最も高い山」とされる[1]。それどころか、実際にはクライマーと呼ばれる一流登山家も多く命を落としている。
氷河に削り取られた氷食尖峰でその峻険な山容は訪れる者を圧倒し、登山家からは「岩の殿堂」とも「岩と雪の殿堂」とも呼ばれている。南東の方角に日本三大雪渓の1つ、剱沢がある。北から東の方角には、大窓・小窓・三ノ窓など「窓」と呼ばれる懸垂氷食谷がある。
表記
「剱」の字には多くの異体字があり一般には常用漢字表の字体を用いて剣岳と表記されることが多いが、地元の上市町は剱岳が正しい表記であるとしている。国土地理院は上市町からの申請を受け、立山町の同意を得た上で2004年発行の地形図から「剱岳」と表記している[2]。
信仰
剱岳は古来、立山修験と呼ばれる山岳信仰の対象であり雄山神社の祭神の一柱である天手力雄神(太刀尾天神剱岳神・本地不動明王)の神体として信仰を集めて来た。一方立山信仰では「針山地獄」とされ立山連峰のほかの頂きから参拝する山であって、登ることが許されなかった。
『日本百名山』の著者深田久弥は『万葉集』に見える「立山(たちやま)」について、これは今の立山ではなく剱岳のことであろうとの説を唱えている
弘法大師が草鞋千足(三千、六千ともいう)を費やしても登頂できなかった、という伝説がある[4]。柴崎以前に数例の登山の記録や伝説・口碑が存在する[5]。
明確な記録に残る初登頂は陸軍参謀本部陸地測量部の測量官、柴崎芳太郎麾下の測量隊によるものである。1907年7月13日、測量隊の測夫・生田信らが長治郎雪渓ルートから本峰の登頂に成功した。7月28日には柴崎らが登頂を達成している。この際の案内人は宇治長次郎であり、宇治は信仰心から登頂しなかったと推定する説が有力である。これについては一切文書の記録がなく、「劒岳・点の記」執筆時の資料など伝聞記録があるのみである[6]。
生田らによる最初の登頂の際、錆び付いた鉄剣と銅製の錫杖が発見された[7]。古い焚き火跡もあったという[8]。なお民間人による登頂は1909年7月24日に石崎光瑤、河合良成、吉田孫四郎、野村義重によってなされていて案内人は宇治であった。
柴崎らは登頂の困難さから重い三角点標石や特にかさばるやぐらを組む丸太を運び上げることができず山頂には立ったものの三等三角点の設置を断念し、標石のない四等三角点とした[9]。そのため、三角点の設置場所を記載する「記ノ點」[10]は作成されていない。
長らく柴崎自身の登頂日が不明とされ、いろいろ議論が続いていたが2007年に四等覘標高程手簿が発見され、前出の柴崎の登頂日が明らかになった[11]。
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